還元主義を方法として、脳科学と現代美術という二つの異なる文化を架橋する、他に類を見ない本だ。平明で明快な書き口は著者の高い論理性と教養を感じさせ、さすがにノーベル賞学者は違うと感嘆させられる。
本書を読むラボ最初の課題図書に選定した第1の理由は、学際的であるということ。ノーベル生理学・医学賞を受賞した神経学者がアートを、それも現代アートを語る、という本書の成り立ちだけで、それが学際的だという説明には十分だろう。
第2の理由は、現代美術を扱っている、ということ。皆さんも経験があると思うが、高校までの歴史の授業で、第二次世界大戦以降の内容については、時間切れのため「扱えない」というのがお約束だ。しかし本当は、歴史的に近いもの、つまり現在との歴史的断絶を認めることができない対象では、みんなが納得しやすい便利な「観察点」を用意できず、そのため「扱えない」ということはご存じの通りだ。そして、美術史についても同じで理由で、現代美術は扱えことが難しい。それに対して本書では「還元主義」という、まるで子供の喧嘩に核兵器を持ち込むような方法で、拍手したいほど見事に解釈してしまう。
第3の理由は、批判的な理由だ。一般的にアートの存在理由は「換言することができない」ことにあると考えられてきた。それは、どれほど複雑に筋肉と内臓を組み合わせても、生命の火をともすことができないのと同じに考えられてきた。そのような、アートの非還元性への挑戦は、本書でどこまで環椎されるのだろうか?
惑星としての地球の歴史は、性質の異なる地層を玉ねぎのように積み重なるモデルで考えることができる。私たちの住むその外皮はこれまで、完新世(Holocene)と呼ばれてきた。ところが最近の著しい環境変動によって、地球の地質学的な特性が大きく変わってしまった。そのため、私たちの住むこの世界をこれまで通り、完新世と呼ぶことが不適切になり、それに代わる新たな「人新世(Anthropocene)」という名前が冠されることになった。
持続可能な発展という言葉は、保守・革新を問わず世界中で受け入れられている。そこでは、ほんの少しの努力や我慢と引き換えに、快適な生活を維持し経済活動を引き続き発展させることができるという、楽観的なシナリオが用意されている。それに対して、本書の立場は悲観的であり、私たちは後戻りできない峠を、すでに超えていると見ている。その峠は250年前に遡る。
明らかな異常気象が日常化する21世紀になって、ようやく地球規模の環境問題が今日的なイシューになった、と考えることはナイーブであり、真実を覆い隠していると本書は告発する。環境問題に対する警鐘は、250年前から繰り返し鳴らされてきたのであり、その歴史的事実を踏まえることなく、それらを真新しい問題だと受けとめてしまう、その認識に大きな危機があると本書は述べている。つまり、250年前から繰り返し、環境問題への深刻な指摘がなされてきたにもかかわらず、そのたびごとにそれを打ち消す言説が受け入れられ、その結果私たちは環境問題を正しく認識する機会を失い続けてきた。そのため、環境問題に対する正当な指摘が、どのように覆されてきたのか、というそのストラテジーを明らかにすることこそが、人新世に生きる私たちにとっての最大の責務であると、著者は訴えている。
理論物理学を研究する著者は本書で、これまで正当に評価されることのなかった古代ギリシアの哲人アナクシマンドロスの「科学革命」を取り上げ、そこから「科学とは何か」という本質的な問題を掘り下げていく。アナクシマンドロスによる「科学革命」とは、球状の地球がなんの支えもなく宙に浮かんでいるというという新たな世界認識を導入したことだ。それ以前の地球は、平らであったり、象や亀に支えられていた。そして、彼の実践した批判的思考が創始となり、その基礎の上に今日の科学的思想、つまり科学的な冒険が展開されている。
本書の魅力は、科学に関する専門的な知識が必要なく、いわゆる文系の人が十分に読みこなせるということだ。そしてその本質的な魅力は、逆説的ながら内容が「科学的」ではない、ということだ。これは「非科学的」であると非難しているのではない。そうではなく、「科学」という営みが、どのような思想的基盤の上で展開するのか、というまさにその「基盤」の探究を通じて、科学における知的な冒険とは何か?ということについて、私たちに理解させてくれるところにある。
その基盤とは、一言でいえば批判的思考だ。本書の結論で著者は「彼のもっとも重要な功績は、今日の科学的思考の基礎となった、批判的な伝統を創始したことである。」(p244)と指摘し、続けてその事例を「師が示した道を歩みながら、しかし同時に、師の過ちをはっきり指摘すること。」p244)と述べている。ここで師とは、ミレトスのタレスである。世界の現象(例えば雷の発生)の原因を、神ゼウスの怒りではなく自然現象そのものによって説明しようとする自然主義が、師タレスと弟子アナクシマンドロスにより創始された。タレスは「万物は水である」と語ったが、アナクシマンドロスはそれを退け、「アペイリオン」(無限者)を措定した。ここで大切な事は、水とアペイリオンのどっちがもっともらしいかという議論ではなく、「水」から宇宙を構築することが、論理的な困難を避け得ないことを理解したアナクシマンドロスが、子弟関係よりも科学的思考を優先し、考え方の枠組みに対して正当な批判を向けたということなのだ。
ところで、私たちが高校までに学ぶ物理や数学の知識の多くは、17世紀に活躍したニュートンが描いた宇宙像に基づいている。ニュートンはその骨格を、直行する3次元空間とそのすべての空間に均一不変な時間の流れに置いた。ついでながら、認識論により近代哲学の基礎を築いたカントがニュートンの仕事に憧れと敬意を抱いていたことを考えると、このニュートンこそが近代思想、つまり無知の暗闇を照らす「啓蒙」の代表者と呼ぶことがふさわしいといえる。ところが、20世紀初頭のアインシュタインの登場が、「ニュートン物理学は、その計り知れない有効性にもかかわらず、きわめて厳密な意味においては『間違っている』」(p11)ことを明るみに出してしまった。それが20世紀の「物理学革命」と呼ばれるものであり、さらに少し遅れて量子力学が登場し、その革命は決定的になった。
この物理学革命が、近代思想における「特有のよどみない確実性、とりわけ、世界についての決定的な知として祭り上げられた、科学の栄光」(p11)を跡形もなく崩壊させた。しかし、著者は物理学革命を、科学の崩壊としてではなく、科学の本質的な内容であるところの、「世界の見方の変革」(p12)の好機と見る。そしてその変革を人類で最初に示したのが、2600年前のアナクシマンドロスなのだ。
「アナクシマンドロスは世界の『読み直し』の道を指し示し、新たな冒険の端緒を開いた。わたしたちはこの冒険に恐怖を覚え、それでいて魅了される。なぜなら、この冒険はわたしたちに、みずからの無知を認め、過ちを引き受けるように課してくるから。知の不確かさを受け入れることは、知へいたる本道であるばかりでなく、より誠実で、より美しい選択でもある。わたしたちの知は、地球のように、虚空で宙づりになっている。足場がないこと、かりそめであることは、生から意味を奪うのではなく、生にいっそうの価値を与えてくれる。」(pp246-7)
人口知能(AI)の世界的権威である著者は「序」の冒頭で、本書の意図を的確に示している。「私は本書が、人間の心の機能・作用について探求している人、もっと良い思考方法を求めている人、また、より気の利いた『マシン』を作ろうとしている人、そのような人たちに役立つことを願っている。人工知能の分野について学習したい人々には、良き手引書となるはずである。また、本書は、心理学者、神経学者、コンピュータ研究者、哲学者が取り組んでいる課題に関して新たな考え方を多数提示しており、このような専門家にも関心を持ってもらえるだろう。」(pvii) つまり、著者こそが「より気の利いた『マシン』を作ろうとしている人」その人であり、心理学的な旧来の知見を人工知能に置き換えようとするのではなく、反対に人工知能開発の知見から心の機能・作用について探究しようとするところに、本書の最大の特徴がある。
心の機能について著者が特に注目するのは、人がいつもの思考方法がうまく行かないときに開始する思考そのものについて考察、つまり《内省的な思考》だ。そしてこの「内省的な思考」が働くことで、自分がどこで間違ったのかを理解し、次には、新しく、もっと強力な〈思考路〉を自分で開拓することができる。しかし、私たちは「自分の脳がこんなにすばらしいことをどのようにやってのけるのか、いまだにほとんど理解していない。」(pviii) そしてその理由は、成功を収めた物理学者と同じ方法をとろうとした心理学者の誤りにあると指摘する。
物理学はこれまで、「固体、液体、気体とは何か。色、音、温度とは何か。力、圧力、張力とは何か。エネルギーの性質とは何か。」(pviii)という問いに対して、ごくわずかの根本的な法則で説明することに成功してきた。しかし、脳内の動きを説明する簡単な法則は存在しない。「なぜなら、脳は数百もの部位を持ち、それぞれの部位がある特定の仕事をするように進化してきたから」(pviii)なのだ。それゆえ著者は、物理学者の手法とは反対の手法を求めることになる。例えば、《気持ち》、《感情》、《意識》という言葉は何を意味するのかと、著者は問う。そして、「これらの心の状態を表す一般的な言葉は、どれ一つとして単一かつ限定的なプロセスを指すのではなく、脳内の複数のプロセスが形成する巨大なネットワークの影響を説明しようと試みたものである」(pviii)と指摘する。ここに、本書のオリジナリティがある。それは、物理学のような還元的な手法を用いることなく、それではどのようにすれば「脳内の複数のプロセスが形成する巨大なネットワーク」を描き出すことができるのか、という卓越した洞察である。
本書が秀逸であるのは、人工知能や脳の機能について、一切の専門的な知識を必要とせず、普通の言葉でわかりやすく語られている、ということである。そして特に貴重なのは、そのようにして語られる脳の機能の理解を通じて、還元的な物理学とは異なる、まさに脳の機能にそった、新たな思考方法を我々読者が、学ぶとはなしに、体感できるところにある。
近代思想の起点が、デカルトの『方法序説(1637年)』であることはよく知られている。仮に、その書名を知らなくとも、いわゆるコギト「われ思う、ゆえに我あり」という言葉を聞いたことのない人はいないだろう。私たちが考えることは疑わしいが、考えているというそのこと自体は疑えない。それゆえ精神の存在を脅かす懐疑論は退けられ、そこに精神とその自由を掲げる近代人が誕生する。
コギトはまた、負の側面を私たちにもたらした。尊い存在として高揚され中心化した「精神」の陰で、それに隷属する「身体」が不当に引き下げられ周辺化し、そこに近代人の持病である二元論もまた始まった。そして、私たちの多くはコギトの罠にはまり、カラダとは別のところにある、心の問題に悩まされるようになってしまった。この精神身体二元論が近代と現代の思想を分ける踏み絵であり、ブレイクスルーは「精神」からではなく周辺化した「身体」の側から起こることになる。そして、その最前線の一つに、本書が扱う脳科学の世界がある。
近代において、「脳」は精神の神殿として祭り上げられてきた。つまり、「脳」は人知を超えたブラックボックスであり、それゆえ思弁的な思考のみが「精神」に近づく唯一の道であり、哲学者は選ばれた神官としてその預言を書き取ってきた。しかし現代、「脳」の働きの多くは、生理的なメカニズムとして解明されつつある。つまり、二元論は逆回転を始め、「身体」としての「脳」で起こる化学物質の変化によって、私たちがアイドルとして高所に置いた「精神」が操られているようなのだ。
本書は、ドーパミンという化学物質とその働きに注目する。脳で働く化学物質はほかにもたくさんある。その中にあって「ドーパミンを産生する脳細胞〔脳の神経細胞(ニューロン)〕は全体のわずか0.0005%――20万個に1個の割合――しかないにもかかわらず、行動に並外れた影響をおよぼしているように見えるのだ。」(p12) 当初、ドーパミンは快楽物質として1957年に発見されたが、後の研究でより正しくその働きが捉えられた。そしてドーパミンが「報酬予測誤差」によって始動することを理解した。つまり、ドーパミンが私たちもたらすのは、「快楽」そのものではなく、「予想外の良いニュースがもたらすぞくぞくするような快感にある。」(p18)ことを突き止めたのだ。
私たちの脳は、世界を二つの領域に分けて処理をしている。それは、文字通り手の届く「身体近傍空間」と、届かない「身体外空間」であり、ドーパミンは「身体外空間」でのみ発動する。つまり、手の届かない「あのジャケットを着れば男前になる」という想像を掻き立て、買いに走らせるのがドーパミンの働きなのだが、手にしたその瞬間「身体近傍空間」に取り込まれたジャケットからは「報酬予測誤差」という魔法が失われ、ドーパミンは雲散し、ただ「散財した」という後悔だけが残ることになる。ドーパミンにとって、重要なのは獲得だけで、所有は関心事ではないのだ。つまり、本書のタイトルの通り、ドーパミンはただ「もっと!」と叫び続けるだけなのだ。
幸運にも、ジャケットを着た日に好感がえられると、「これを着ていると自信がわく」という「身体近傍空間」をつかさどる複数の神経伝達物質が働きだす。本書では、それらをまとめて「H&N」(Here & Now)と呼んでいる。具体的には、セロトニン、オキシトシン、エンドルフィン、エンドカンナビノイドという一群の化学物質がそれだ。そして、ドーパミンとH&Nはトレードオフの関係にあり、そのバランスと転換のなかで、私たちの欲望も幸せも、つまり「精神」の働きの多くが営まれることになる。
本書はドーパミンを主役にH&Nを脇役に置くことで、私たちの精神の働きや病理を分かりやすく解説している。章構成はその取り扱う領域は示し、見出しは、愛、依存症、支配、創造と狂気、政治、進歩と展開する。そして終章の「調和」において、ドーパミンとH&Nの調和が語られることになる。
ハヤカワ・ノンフィクション文庫
「音楽とは何か?」という質問は、「哲学とは何か?」に応えるのが難しいのと同じ意味で、難しいのだと思う。例えば西洋哲学の始祖とも言うべきソクラテスからは「無知の知」という答えが返ってきそうだ。しかし、それは「哲学とは何か?」の答えではなく、「哲学」を自分で考えるための出発点を示すにとどまる。したがって問題は、読者がそこから先を自分で考えたくなる、どのくらい強い動機づけをソクラテスの問答が与えてくれるのか、というところに移るだろう。
本書は、「音楽とは何か?」に答えることを目的とはしていない。そうではなく、「音」に関する平明な科学的解説を通じて、「音楽への好奇心を開く」という、興味深い出発点に私たちを立たせてくれる。そして、運が良ければ、その先へ歩きだして「音楽とは何か?」という新たな冒険を動機づけてくれるかもしれない。
第1章の以下の節が本書の特徴を端的に述べているので、引用する。
“この本は、意見や推量をもとに書いたものではなく、音楽の音がどのように作り出されるのか、その音と音が組み合わさって曲ができると何が起こるのかという事実にもとづいて書いたものだ。多くの人が、音楽は芸術だけから成り立っていると思っているが、それは正しくない。論理学の規則や、工学、物理学が基盤になり、音楽の創造性を支えている。過去数千年における音楽と楽器の発展は、芸術と科学が相互に影響を及ぼし合って成し得たものなのだ。”
この部分だけ参照すると、ずいぶん硬い印象を与えてしまうかもしれないが、読み始めれば誰しも、そのカジュアルな語り口に引き込まれ、楽しく読み進めることができるだろう。また、理解する上で、音楽的な素養もほとんど必要としない、多くの読者に開かれた良書と言えるだろう。
【補足説明】
本書は2011年に、早川書房より単行本『響きの科楽』として発売され、その後2016年に改題(楽→学)し、文庫本『響きの科学』として発売されている。
文藝春秋 (2017/5/25)
本書解説より引用
"2014年にオランダで自費出版同然の本がコツコツと売れ、アマゾンの自費出版サービスを通じて英語に訳されたとたん、大手リテラリー・エージェントのJanklow & Nesbitの目にとまり、2017年には全世界20カ国での出版が決まる。2015年、フランスのトマ・ピケティの登場を彷彿とさせるようなシンデレラストーリーを体現しているのが本書『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと1日3時間労働』である。"
本書は、世界的なベストセラーであり、読むラボでこれまで取り上げた書籍の中で、おそらく最もポピュラーなものである。私自身、本書の評判はいろいろと聞いていた。しかし、実際に手に取ったのは遅く、昨年2022年の冬のことであった。書店に並ぶその装丁が「平積み」本、つまり、売らんがための消費物として生産された、内容の薄いハウツーものに見えたことが、その原因であった。それでは、なぜ遅ればせながら手に取ったかというと、「ベーシックインカム」について、たとえハウツーでもよいので、知りたいと思ったからだ。
実際に読み始めてみて、本書がベストセラーになり得た必要条件はすぐにわかった。一つは読み易い、比較的容易な文章であること、そしてもう一つは、「夢」を語っていることである。社会的、いや地球的規模で「人間の生き方」について検討する書籍の多くが、例えば『人新世とは何か』のように、その批判的な思考により、ともすれば読者を自己否定的な気分に染めてしまうのに対して、本書は驚くほどの楽観的かつ明るい未来を読者に示してくれる。
しかし、読み易く楽観的(もしくは劇場的)であるだけではまさに、他の「平積み」と変わらない。本書を他書と分けるのは、自明のことを繰り返すだけで自己完結してしまう予定調和ではなく、開かれた議論が健全に展開している点にあると思われる。それに関して本書の特徴は、著者が自らを思想的な先導者や研究者ではなく、あくまでもジャーナリストとして位置づけたところにあると思われる。
私たちは、人類史上最も豊かで幸せな時代を生きている。それにもかかわらず、なぜ私たちは幸せを実感することができないのか?そして、どうすれば幸せになることができるのか?これが本書のテーマである。改めてこう書くとやっぱり安い「平積み」にしか見えないが、本書は、開かれた議論を通じて、ジャーナリストとしてのリアリティーのなかで高い志を具体化していくことで、一級の著作としての十分条件を満たしている。
今年2023年は後年、「ChatGPT」によって開かれた「AI」に関する実用的諸問題が始まった年として、記憶されることになるだろう。他方「ベーシックインカム」の議論はウクライナ問題以降、トーンダウンしているように思われる。しかし、本書の立場からすれば、それらは一つのコインの裏表であり、そのためどちらの問題も、「私たちはどのようにすれば幸せに生きられるのか」というユートピア探求のプロセスとして、私たち自身が取り組むべきものだろう。
早川書房、新書版上下2冊 (2020/10/15)
ハヤカワ文庫NF NF 上下2冊(2022/12/6)
私には、ポスト・バブルの下り坂を象徴する、ある種の諦観を感じさせた一冊の本がある。それは中公新書の、本川達雄 (著)『ゾウの時間ネズミの時間: サイズの生物学』(1992/8/1)である。私が読んだのは1998年頃で、その印象は前職での相模原の風景と重なり合う。本書は当時かなりのベストセラーになったので、ご存じの方も少なくないと思う。
長命なゾウのゆっくり経過する時間と、短命なネズミの大急ぎで経過する時間、その二つの異なる生命現象が実は同じ数の総心拍数に基づいている、という生物学的な知見を詳細に説明した内容だったと記憶している。もちろん我々人間もまた、同じ哺乳類として同じ心拍数の総数を生きて死ぬことになる。当たり前の事ではあるが、無限に続くことのない有限な人生が、総心拍数という客観的な数字で、まさに定量的に明示されたことは驚きであった。ただ、そこで感じた「諦観」は、限りある人生の儚さに対するものではなく、もう少し別のところにあった。それは、「なぜその総心拍数なのか?」という原理の説明が十分に読み取れなかったからであり、結局は「人生の有限について科学は原理的に説明できず、したがって人間が生きる意味もまた科学では説明できないのだろう」という、まさに科学的知識の存在意義に関する諦観を感じたからである。
話は変わるが、読むラボの次期課題図書として、私は新たに「科学」に関する本を扱いたいと思っていた。そのために手当たり次第に10冊程度を読んだが、これという本に出会えない時に、図書館でたまたま手に取ったのが本書だった。書架で数ページ覗き見たときの印象は、先に述べた『ゾウの時間ネズミの時間』をなぞっているように見えて、あまり好意的に映らなかった。ただ、著者が理論物理学出身であること、そして帯にはTEDで有名になったと書いてあったので、苦し紛れの候補として、とりあえず読み始めることにした。しかし、予想に反して興味深く好奇心を揺さぶり、示唆に富んだ読書となった。そして何よりも、物理学者の書いた理論的説明の中で、微分も積分も出てこない本は、これが初めてだった。そして諦観を越えて、もう少し科学に興味を持ってみようかという、希望的な思いを新たにすることができた。
本書の核心は、指数関数という覗き眼鏡による「スケーリング」という幾何学的な方法を用いて世界を科学的に理解することにある。そして本書は、生命(哺乳類)ばかりでなく、都市や企業のライフサイクルについても、同じ理論で定量的に読み解こうとする「複雑適応系科学」の序説であり、そこに著者の深い洞察と強い意志が描き出されている。くわえて、その独特な書き口において、多様性に関する具体的な展開が見られるという点を指摘しておきたい。つまり、科学的な論理性と、個人的な歴史性や生活史、その量的記述と質的記述の二つが不思議な創発を生み出しているというのが、本書の成功の鍵であったと思われるのだ。
「啓蒙」の名のもとに、理念的で合理的なモデルの中に世界を閉じ込める近代思想が、早くは20世紀に、遅くとも21世紀とくにポスト・コロナにあって、その終焉を迎えつつあることは、多くの人が感じているところだろう。今年2024年が世界的な「選挙の年」であることもまた、単なる巡り合わせとは思えない。きっと何かが終わり、何かが始まりつつある。しかし、その私たち自身の現実を、私たち自身が客観的に見渡すことは難しく、その先の世界を思い描くことは更に難しい。その中にあって、本書テーマの「スケーリング」理論と、著者が選んだ多様性のナラティブ、その両者の絶妙な組合せの中に、私には大きなヒントが示されていると感じられた。理論とナラティブ。さて、皆さんはどのように読むのだろうか。
みすず書房(2019/12/21)
日経新聞土曜版の楽しみは、なんといっても見開きの大きな書評ページだ。私にとって、これがほとんど唯一の新刊本の情報源となっている。朝の紅茶を飲みながら、書評を眺め、心に留まる本を探す。本書は2020年2月15日に紹介されていた。
これも毎度のことではあるが、私は書評を読んでいるようで読んでいないようだ。ある程度の知識をもっている分野の場合、書評から本の内容を推測することもできる。しかし、まったく知識を持ち合わせていない分野の場合、書評を目で追うだけでは頭に入ってこない。それにも拘わらず、不思議に惹かれる本と時々出会うことができる。
早速手にした本書は、みすず書房らしく小ぶりで端正に仕上がっていて、カバーの麦穂の絵も美しく上品で、本棚を飾るのにはもってこいだ。それにしても「反穀物」などという日本語があるのだろうか?これは、私のような老人が陥りがちな穀物中心の単調な食生活をいさめる、「ロカボ」生活への誘いの書なのだろうか?というわけで、実際に手にとったものの、結局は3年以上積読のまま放置していた。
しばらくして、別の本を読んでいた時に、そこで本書が引用されていたのだが、その文脈が穏やかではなかった。現代における「アナーキズム(無政府主義)」の代表的な思想家とその書籍として、この『反穀物の人類史』が紹介されていたのだ。その時まで私は、「アナーキズム」は「マルクス主義」以上に古く、すでに死に絶えた過去の遺物だと理解していた。つまりは博物館の中の恐竜の骨格が、突如として歩き出したような驚きを感じるとともに、実際に読んでみたいという強い好奇心が生まれた。これは大変だ!私の書架のなかで、美本として落ち着いていたものが、突然、ぶっそうな「時限爆弾」のように見えて来たのだ。
著者の語り口は、あくまでも学者のそれであって、いわゆる「扇動的アナーキスト」のものではない。しかし、読み進むうちに、「真正のアナーキズム」と呼ぶべき、今に生きる思想を、著者はこの小冊のなかで確実に示している。著者が本書を通じて用意した視座は、少なくとも私にとって、かつて想像だにしなかった地点であり、そこから眺める世界は、これまでと大きく異なっていた。
なお、本書の英語オリジナルは2017年に出版されたが、著者はそれに先立つ2009年(邦訳2013年)に『ゾミア――脱国家の世界史』を上梓している。それは、本書『反穀物の人類史』に比べてかなりの大部で専門的な内容を多く含み、そこで多くの事象が具体的に検討されている。そのため、『ゾミア』で展開したアナーキズム的「人類史」から、その思想的核心部分を抽出し、より一般的な読者のための概説として書き下ろされたのが本書である。
私はこれまで、「アート教育とは何か?」への回答を、一言では「周辺的価値」と述べて来た。しかし、本書を読んだ後、「周辺的価値」という概念に違和感を覚えるようになった。その違和感は、否定的というのではなく、超克的と呼ぶべきものである。「周辺」は「中央」と対峙する概念である。その「周辺」を語るためには初めに、「中央」を認知しなければならない。つまりは「周辺」に独自の価値を認めようとすればするほど、私たちは「中央」に依存せざるを得ず、結局は「中央」に対する「周辺」というヒエラルキー構造を強化し、「周辺」の疎外を助長してしまうことになる。その意味で、アナーキズムとは、「中央」の対峙ではない「周辺」に関する新たな概念の模索と考えることができる。それはつまり「サバルタン問題」と言われるものであり、おそらくは明確な概念化は難しいだろう。それゆえ、そのような問題への覚醒を、抽象的な議論ではなく、具体的な人類史を通じて、私たちに促してくれることが、本書の最大の貢献であると考える。(記 2025年3月9日)
作品社(2023/10/25)
プロローグで著者は、歴史の彼方に消えたアレキサンドリア大図書館に始まる「書物の狩人たちの冒険を続けようという試みである」(p17)と本書の趣旨を述べている。そう、この本は小説でもエッセーでもなく、歴史書でも哲学書でもなく、まさに「書物」をめぐる冒険の書なのだ。そして、最良の読書体験がそうであるように本書は、私たちを観客席からアリーナへと連れ出し、私たちが冒険者として本書を探索することを鼓舞してくれる。
500頁近い本書は、古代ヨーロッパの二大文明であるギリシアとローマという、歴史の流れに沿った2部構成になっている。第1部「未来に思いを馳せるギリシア」では、歴史上もっとも有名なアレキサンドリア大図書館の来歴を中心に物語が展開し、第2部「ローマの街道」では、「書物」と人々をめぐる、より広範な出会いを楽しむことができる。
本書を作り上げている数多くの「書物」それぞれの物語はもちろん魅力的であるが、本書の最大の特徴は「文体」にある。「訳者あとがき」で訳者はアルベルト・マンゲルによる、示唆に富む書評を以下のように取り上げている。
この本特有の魅力は、文体にある。バジェホは学術的な文体を切り捨てる、もしくは解放するという賢い選択をした。(pp491-492)
そして、訳者自身もその「文体」について、以下のように詳述している。
例えば本書内では、バジェホ本人の個人的な体験や思いやりも語られる。それは学術論文に求められるような普遍性を好む読者には雑音と捉えかねない。あまりにも生々しく、語りの位相を逸脱しているように感じる読者もいるかもしれない。けれども、むしろそれよりはよりラディカルな批評行為であり、自分自身の立ち位置と個人的なバイアスを文中で明らかにすることは、読者に情報の判断基準を明け渡しているとも考えられる。(p492)
古典文献学博士という著者であれば、学術的な文体で研究成果を論文にすることは、ごく自然なことであろう。しかし、著者はなぜこのような「文体」を選ぶことになったのだろうか? その答えとして、エンターテイメントにして発行部数を稼ぐという理由もなくは無いだろう。しかし、目まぐるしく多岐に展開する本書のプロットが、ちりじりに別れることなく、有機的かつ力強い生命感を紡ぎ出すという、本書の類まれな魅力を、その下部構造だけで説明することはできない。つまり、このような「文体」というものが初めから想定されていたのではなく、著者の根底にある思想もしくは姿勢こそが、この「文体」として結晶したと考えるべきなのだろう。
著者が、いわゆる読書家の枠にとどまらない、プロの渉猟家であることは明らかであろう。しかし、その渉猟の範囲が研究者として学術的に区切られたものではなく、彼女自身の幼少期から人生のすべての時間と経験において、考えられる限りの広範なものである、ということは、本書を通じて読み取ることができる。つまり、彼女は最初から最後までイレネ・バジェホという個人で、あくまでもその読書好きが長じた結果として古典文献学者になったのであり、古典文献学者としての職業的任務により渉猟してきたのではない、ということなのだ。別の言い方をすれば、著者にとっての読書は決して職業的任務ではなく、愛情の対象であるとともに、自分自身を育てる揺り籠にほかならない。そして、その愛情と安寧を読者も共有することができるのである。
渉猟が職業的任務を帯び、仮にも科学的客観性を持つためには、その実践に先立って目的を明らかにし、その目的に沿って、書物を取捨選択しなければならない。つまり、あらかじめ用意された体系(規範・規律)に沿って、材料となる書物が適切に配置され、そこから論理的な記述が生み出されることになる。しかし、著者にとっての渉猟は、人生を生きることそれ自体であり、職業的任務がプライオリティになることはない。そのため著者は、その渉猟を自分自身が生きるための冒険の物語という「文体」に託して、私たちに届けてくれたのだと思う。
著者はまた、自身を女性というジェンダーに意図的に位置づけることで、生きるための「文体」をさらに強化している。歴史や物語に登場する多くの女性たちが描かれている、ということもまた、本書を特徴づけている。ほとんどの歴史を通して、女性は男性に劣るものとされてきた。そして現代においても差別は完全には解消されていない。このジェンダー問題もまた、本書の「文体」と深くかかわっていると思えるのだ。人類の文明を通じて、歴史は男のものであった。それはつまり、男尊女卑の大家族のように、すべての思想が一つの完全な頂点に向けて、論理的・倫理的・階級的に統合されるという「男性型モデル」である。それに対して著者は本書において「女性型モデル」とも呼ぶべきものを、その「文体」に託して展開していると思われるのである。それを既存の「男性型モデル」との対照で述べれば、非論理的・非倫理的・非階級的ということになるが、これではまだ対照ということを通じて概念の男性依存を生み出してしまい、本末転倒である。そのため、生煮えの概念ではあるが、「物語的・親和的・内包的」という「女性型モデル」として、本書の「文体」を理解する第一歩としたい。
本書の「文体」において、物語的であることは重要である。そして、その物語とは決して臣下が王に報告する「男性型モデル」ではない。そこでは簡潔・明瞭さが求められ、繰り返されることで価値を失い続ける。それに対して「女性型モデル」における物語は、寝入り前の子供への読み聞かせのようである。おわりはいつも遠ざけられ、繰り返され、それが心地よく響く。そのため本書は、通読後にもう一度初めから読み直したくなる魔法を秘めている。
ちくま学芸文庫(2018)
西洋の歴史は、古代・中世・近世という、3つに区分することが一般的である。古代は神話と英雄と哲学者の時代であり、その遠さが偉大さとなり、批判よりも憧れの対象となっている。近世はルネサンスと科学革命を経て人間中心を謳歌する私たちの時代につながる。その古代と近世に挟まれる中世はというと、すべてが宗教の黒い影に覆われた暗黒の時代として忘れ去られる。このステレオタイプは私たちがその末端に住む近世が、どうやら自分自身を称揚するためにつくりだした恣意的な歴史観、プロパガンダであるようだ。中世を舞台とする本書は、主にキリスト教会におけるアリストテレス受容を軸に、著者が「アリストテレス革命」と呼ぶ、知と変遷について著したものである。
本書の日本語タイトルは『中世の覚醒』となっているが、原書の英語タイトルは『Aristotle's Children: How Christians, Muslims, and Jews Rediscovered Ancient Wisdom and Illuminated the Middle Ages. 』であり、直訳すれば「アリストテレスの子供たち:キリスト教、イスラム教そしてユダヤ教は、どのようにして古代の知恵を再発見し中世を照らしたのか」となろう。このタイトルを読む限りでは、本書はアリストテレスに関連した史学ジャンルの書籍に留まるように思われるが、その想像を超えた強く明確なメッセージに貫かれているということが、本書を類まれなものにしている。
奥付に記された簡単な著者紹介によると、「国際紛争解決が専門」とあり、著作のきっかけについて「私がアリストテレス革命の物語に遭遇したのは、宗教間の衝突が生じる原因を研究していたときのことだった」(p11)と簡単に説明している。著者は西欧におけるアリストテレスの再発見――「12世紀にキリスト教の聖職者たちがムスリムの支配を脱したばかりのスペインの都市で、過去1000年近くも西ヨーロッパから姿を消していたアリストテレスの一連の著作を再発見したことを知ったのだ」(p11)――に驚くとともに、「この物語がきわめて興味深く、歴史的に重要な意味をもっているにもかかわらず、いかに世に知られていないかということだった」ことに、それ以上の驚きを覚えている。そして、その中世のアリストテレス革命が「西ヨーロッパの思考様式を変容させ、その文化を科学的な探究への道に誘った」(p12)という評価に基づいて本書を展開している。
本書に登場する主たる中世思想家(宗教家)たちは、キリスト教の「信仰」とアリストテレスで再発見された「理性」、その二つを調和させる方途を探った。調和を精緻にするプロセスが中世思想を、ひいては人類の思想に大いなる深みを与えたことは疑い得ない。しかし、「こうした努力にもかかわらず、14世紀にはすでに、信仰と理性の分離が始まっていた。この時以来、対立をはらんだ分離ともいうべき状態が、信仰と理性の関係を特徴づけている」(pp14-15)。
現在の私たちは、信仰と理性の分離が「科学」を生み出したことを知っている。そして、「科学」がもたらした多くの果実を享受することで、豊かな生活を営んでいる。その意味で、中世の厳しく貧しい暮らしに戻りたいと考えることはない。しかし、私たちは私たちのこの時代に、中世とは異なる多くの不安を抱えている。そしてその不安の多くは、信仰と理性が分離したことが原因かもしれないのだ。「信仰」というとなじみは薄いが、その意味は、真・善・美・信念・義・徳・価値・評価、等々と読み替えることができる。つまり客観的でないものはすべて「信仰」に準ずる概念と捉えることができる。
著者は、「私たちが近代文明と称する文明は、頭の文化と心の文化の分離、力の神聖視、宗教の「私有化」、諸々の価値の商品化などを、その特徴としている」(p15)と述べ、信仰と理性の調和を放棄した私たちの文明を描写している。そして、「本書が明らかにしているのは、この状態〔信仰と理性の分離〕が未来永劫に続くわけではない、ということだ」(p15)と指摘したうえで、「私たちの歴史の形成に与った物語の中に、もっと人間的で統合されたグローバルな未来を築くヒントを見出せるかもしれないのだ」と希望を繋いでいる。
最後に、上述の通り本書は「中世のアリストテレス受容における信仰と理性の調和」を主たるモチーフにしているが、そのモチーフに命を吹き込むために、キリスト教やその思想家たちを丁寧に描写している。そのため、中世の思想とその歴史を身近に知るためのガイドブックとしても、本書は優れた読み物となっている。
注)参照頁数は、2008年紀伊國屋書店版による。